2011年9月16日に成立した「米国発明法」(America Invents Act)により、米国は先発明主義から先願主義に移行する(先願主義の施行は2013年3月16日)。しかし、先願主義への道のりは平坦ではなかった。アメリカはシリコンバレーに見るように、なんといってもアントレプレナーの国である。イノベーションを担っているのは、大学や、個人発明家、ベンチャー企業であり、彼らはこぞって先願主義に反対したからである。先発明主義に至るまでのアメリカ社会の長い道のりを辿る。
世界恐慌とアンチパテント政策
1929年10月24日(ブラックサーズデイ)にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに世界大恐慌が起きた。大恐慌の最大の原因は、大企業による市場の寡占化にあると分析したアメリカ政府は1930年からアンチパテント政策を始める。企業を寡占・独占に向かわせたのは特許制度であると考えたのである。アメリカ政府は、特許法と対極にある独占禁止法(アメリカでは「反トラスト法」と呼ばれる)を強化した。これ以降、アメリカは1970年代の終わりまでの50年間、強力なアンチパテント政策を採用する国となった。
プロパテント政策への転換
しかし、アンチパテント政策を取っていた1970年代、アメリカの経済成長は低迷し、失業者が増えて戦後最悪の経済状況となっていた。アメリカは1980年代に従来のアンチパテント政策からプロパテント政策へ大きく舵を切る。特にレーガン政権下で産業競争力委員会により1985年にヤングレポートが発表されると、知的財産権の保護が強力に推し進められた。知的財産の強化により、貿易赤字と財政赤字という「双子の赤字」に苦しんでいたアメリカの産業界の競争力は急速に回復していった。
米国のプロパテント政策は、通商法スペシャル301条(アメリカ合衆国の通商法における知的財産権に対する対外制裁に関する条項)に見られるように、外国との貿易にも大きく影響を与え、知的財産を保護しない国には容赦なく対外制裁を加えるまでになっていく。
しかし、一方では、行き過ぎたプロパテント政策の弊害も顕著になってきた。レメルソン氏のようなの個人発明家がサブマリン特許(注)を日米のメーカーに権利行使して巨額のライセンス収入を獲得した。レメルソン氏はバーコードの読み取り技術などのサブマリン特許を成立させ、日本の自動車メーカーやアメリカのフォードを特許侵害で訴えていた。パテント・マフィアが社会問題となった時代である。今日では法制度の改正によりサブマリン特許はほとんど存在しなくなったが、「パテントトロール」と呼ばれる、特許権を保有するが実施することのない特許不実施主体(Non-Practicing Entity;NPE)(「特許保有会社」とも呼ばれる)による特許権の行使が社会問題となっている。(トロール(troll)とは北欧神話に出てくる洞穴や地下等に住む奇怪な巨人または小人のことである。)
注:米国の特許制度ではGATTウルグアイラウンド協定により1994年に特許法が一部改正されるまでは特許の存続期間が権利付与から17年であり、1999年に一部改正されるまでは出願公開制度もなかった。特許が成立するまでは出願内容が公開されず、特許権付与の日から存続期間が起算されるため、出願から長期間公開されずに潜伏し、技術が陳腐化され利用が広がってから、特許を成立させることが可能である。潜水艦のようにある日突然、特許が現れて権利行使されたことから「サブマリン特許」と呼ばれた。
レメルソンの死と特許法改革の旗手マイクロソフト
こうして自らをエジソンの再来と呼んだ発明王レメルソンは巨万の富を築き、遺産を残して1997年10月1日、74歳で世を去った。レメルソンの死は、一つの時代の終わりを告げる。
行き過ぎたプロパテント政策に対する反省と改革を求める声は、情報産業界から聞こえてきた。背景にはソフトウェア産業の特許戦略の立ち遅れがあった。ソフトウェア製品は多くのソフトウェアモジュールで構成されており、その内、一つのモジュールでも特許を侵害すれば製品全体に差し止めがかかる。また、損害額に算定にはentire market valueルールが適用され、部品特許であっても、製品全体の価格の25%(合理的なロイヤルティは製品価値の25%とするルールが一般的である)に販売総数を乗じて損害賠償額が決まるため、巨額の損害賠償額になる。
これに最も悩まされたのはマイクロソフトである。ウィンドウズやオフィス製品は数多くのコンポーネントで構成された巨大なパッケージ製品であり、関連する特許の数は半端ではない。University of Houston Law CenterのPATSTATS US PATNET LITIGATION STATISTICSは、2005年1月1日から2012年11月30日までの米国特許侵害訴訟の評決の損害賠償額を表にまとめている(Jury Patent Damages Verdicts (1-1-05 to 11-30-12))が、マイクロソフトは公判で一度も勝訴していない。そして、その損害賠償額は、結局のところ、マイクロソフトの製品価格に上乗せされ、ユーザが負担しているのである。
特許侵害訴訟に悩まされていたマイクロソフトは、2005年3月15日のNew York Timesの全面広告を出し、米国の特許制度の改革を要求した(A Call for Reform: The patent system has served Americans well, but it needs attention)。マイクロソフトは、米国の特許制度には欠陥があり、改革しなければならないと訴えた(米国特許弁護士服部健一氏の日米特許最前線第14回「大きく変わる米国の特許制度」)。洪水のように出願される特許の審査が追いつかず、保護に値しない特許が成立していること、特許訴訟が急増しており、技術的に複雑な特許侵害事件を裁判官や陪審員が判断するため、訴訟結果は、くじを引くかのように予測不可能であるなどとアメリカ社会に訴えた。
これを受けて、アメリカ合衆国下院は、「先発明主義」に比べて特許審査が効率的で訴訟費用も軽減することのできる「先願主義」に移行する特許法改革案を発表するに至る。しかし、この法案には、IT業界の要望した損害賠償の負担を軽減するための改正が含まれていたため、侵害者には多額の損害賠償額を要求したいバイオ・製薬業界から激しい反対に会う。
Unilock v Microsoftの控訴審判決によりentire market valueルールが見直されたこともあって、マイクロソフトを始めとするIT業界は損売賠償額の見直しを法案に盛り込むことを見送るに至り、米国特許改正法は、先願主義を中心とする法案に落ち着いていく(米国特許弁護士服部健一氏の日米特許最前線第60回「特許損害賠償の評決を抜本的是正する歴史的ユニロック判決-米国特許法改革案の可決をもたらす」参照)。
先願主義への最後の抵抗
しかし、先発明主義を手放したくなかった、シリコンバレーを拠点にする大学やベンチャー、個人発明家たちは、先願主義になんとか先発明主義の要素を残そうと腐心する。特にアメリカの大学が特許法改革に与える影響は大きい。アメリカの大学の特許ライセンス収入は世界で群を抜いている。日本の大学のライセンス収入が約8億円であるのに対して、米国の大学は約1800億円である(米国特許弁護士服部健一氏の日米特許最前線第62回「オバマ大統領、新米国特許改革法をサイン―世紀の新米国特許法は先願主義ではない」)。大学のロビー活動によって、米国改正法の先願主義は、純粋な先願主義ではなく、「先発表」主義を混ぜ合わせた「先発表先願主義」ともいうべき妥協の産物になったのである(ブログ記事「米国発明法の先公表先願主義」参照)。
最後のサブマリン特許が温存される
前述のGATTウルグアイラウンド協定の施行以前の出願(1995年6月8日以前の出願)(「pre-GATT出願」と呼ぶ)について、米国発明法(AIA)の一部の不備を修正するための下院の修正法案H.R.6621は、pre-GATT出願の特許存続期間を出願から20年にする(post-GATT出願と同じにする)ことを盛り込んでいたが、この修正条項は上院で反対に会い、削除されている。個人発明家Gil Hyatt氏の強い意向を受けた上院議員が反対したと伝えられている。ハイアット氏もマイコンの基本特許をサブマリン特許として用いて巨額のライセンス料を稼いだ人物である。これによって、pre-GATT出願については、「サブマリン特許」の懸念が依然として残る。pre-GATT出願はまだ200件ほど米国特許商標庁 に係属しているといわれ、議会は米国特許商標庁 にpre-GATT出願の内容をレポートするように求めたが、個人発明家らのロビー活動により、それも取りやめになった。それほどまでにアメリカという国は、個人発明家に対する保護に厚い国なのである。
パテントトロールは今後、どう出るか?
米国発明法から損害賠償を制限する規定は見送られたが、Unilock v Microsoft控訴審判決により、損害賠償額は今後、entire market valueではなく、実施料(ロイヤルティ)相当額しか認められなくなる。また、eBay差止事件最高裁判決により、パテントトロールのような特許不実施主体は特許を実施していない以上、取り返しのつかない損害(irreparable injury)を被ったわけではなく、損害賠償だけで救済としては十分であるから、差止請求権を行使することは許されない(参考ブログ記事「製品の一部が特許を侵害している場合の製品全体の差止」)。企業の息の根を止める差止請求権を背景にしてパテントトロールが企業相手に多額の損害賠償額を請求することはできなくなった。
では、今、パテントトロールは何をしているのか。裁判所には特許権侵害で実施料相当額の損害賠償を請求する一方、パテントトロールはITC(アメリカ国際貿易委員会)に特許権侵害を提訴している。ITCは、アメリカへの輸入品の知的財産権侵害を調査し、アメリカの国内産業に対して損害を与える不公正な貿易を是正する連邦政府の独立機関である。ITCに訴えて勝訴すれば、アメリカへの侵害品の輸入を税関で差し押さえることができる。ITCは、アメリカ国内に保護すべき産業があるかどうかを見て、裁判所とは独立に差止請求権の行使を認めるか否かを判断する。
トヨタ自動車は、同社のハイブリッド車が米ペイス社の特許権を無断使用しているとして訴えられていた。トヨタは、地裁では損害賠償は請求されたが、ハイブリッド車が環境に優しい技術であることから、公衆の利益の観点に鑑み、差止請求権の行使はされずに済んだ。しかし、ペイス社はトヨタ自動車をITCに提訴した。アメリカには保護されるべき自動車産業があり、トヨタはアメリカへのハイブリッド車の輸入を差止めされるリスクがあった(ハイブリッド車特許侵害でトヨタをITC提訴)。この事件は、輸入差し止めのリスクを避けたいトヨタがペイス社と和解するに至っている(トヨタ、ハイブリッド車の特許訴訟で米ペイスと和解)。
関連投稿:「米国発明法の先公表先願主義」
ピンバック: 差止請求認容判決の強制履行の手段ー間接強制 | 知的財産 法とビジネス
ピンバック: 米国発明法の署名式ーオバマ大統領はペンを何回交換したか? | 知的財産 法とビジネス
ピンバック: 代理人のミスに寛容な米国特許商標庁ー合衆国の建国の精神に立ち返って考える | 知的財産 法とビジネス
いま知財ビジネスは、硬直化している戦略的にオープンマインドであるべき分野を
駄目にしているのではないか?