シャルリー・エブド紙Tout est pardonné(All is forgiven)に込められた真意

FRANCE-SHOOTING by scrolleditorial, on Flickr

襲撃事件後のシャルリー・エブド紙の今週号の表紙には「私はシャルリー」と書かれた紙をもったムハンマドの風刺漫画が描かれ、その上にフランス語でTout est pardonné(英訳するとAll is forgiven)と書かれています。これを受けて、日本の一部の新聞社は、表現の自由のもとなら、(ムハンマドの風刺も含めて)「何でも許される」という意味に取っているようです。しかし、これはAll is forgivenの真意を読み誤ったものだと思います。これは基本的な英語力もしくは国語力の問題であり、大変失望します。

何でもやっていいよというのは「許可」を意味しますが、自分に悪いことをした人のことをゆるすというのは「責めない、とがめない」ことを意味します。私は前者を「許し」と書き、後者の場合は「赦し」と書くことで区別するようにしています。後者の「赦し」には、自分に悪くした人のことを憎まないという強い決意が必要であり、たやすくできるものではありません。あなたは自分の家族を殺した犯人を赦せますか?

シャルリー・エブド紙の弁護士は確かに、神を冒涜することも含めて表現の自由の権利を守るという趣旨の発言をしていますので、その流れで、宗教的権威を揶揄することも含めて「すべてのことは許される」という意味で報道陣が理解したのかもしれませんが、イスラム過激派がシャルリー・エブド紙の漫画家を殺害したことに対して、怒りの拳を挙げることが今週号の風刺漫画の趣旨ではないと思います。これは、今週号の表紙を描いた漫画家が涙を堪えながら行った記者会見を見てもわかることです。この風刺画を描き終えた作家がTout est pardonné(All is forgiven)と泣きながら叫んだことの真意はそこにあるのではありません。

英ガーディアンの記事はAll is forgivenの意味を正しく伝えています。シャルリー・エブド紙の女性コラムニストZineb El Rhazoui氏がこの言葉は「襲撃犯を人として赦すことへの呼びかけ」であると説明しています。

襲撃犯を憎み、ののしり、怒ることでは問題は解決しません。この闘いは、過激派思想に不幸にも洗脳された若者たちに向けられたものではなく、近代の価値観を暴力で覆そうとするイスラム過激思想に向けられたものです。憎しみに対する憎しみは問題をさらに複雑にしていきます。しかし、愛と赦しがそこに加わるとき、憎しみ合っていた人間同士の関係に変化の兆しが現れ始めます。

この地上において、正義と平和を同時に実現することはたいへん難しいことです。正義を振りかざしても和平が訪れることはありませんし、かといって、悪から目をそらして仲良くしても偽りの平和になるだけです。All is forgiven(すべては赦される)-この言葉には人類の未来が託されていると思います。

最後に、宗教を侮辱する表現の自由が許されるかという問題について触れたいと思います。これは非常に難しいテーマであると思います。私はキリスト教を真剣に信じる者の一人ですが、その立場からあえて申し上げますが、この社会で神を冒涜する自由がなければ、神を賛美する自由もないと私は考えています。

公の場で宗教を批判する自由を規制する社会は、個人が公の場で信仰を告白する自由も制限する可能性があります。アメリカ社会はそうなりつつあると思います。最近のアメリカ映画にGod’s Not Dead(邦題:『神は死んだのか』)がありますが、この映画の脚本はアメリカの大学のキャンパスで起きた数々の訴訟事件をもとに作られたもので、哲学の授業で「神は死んだ」と書いて署名するように教授に求められた学生が自分はクリスチャンだからという理由で署名を拒んだことから物語が始まります。アメリカの大学のキャンパスでは、教職員や学生の個人的な信仰のゆえに差別したり、侮辱することが問題となる一方で、大学教授が個人の宗教観について授業の中で触れたり、学生がレポートなどで自分の信仰について触れることも難しくなってきています。アメリカでは公共の場所で他人の信仰を侮辱できない(それは当然のことですが)と同時に、公共の場所で自分の信仰について語ることも難しくなっています。それは公共の場所で中立性を担保するためには良いことかもしれませんが、見方を変えれば、人に無宗教あるいは無神論であることを強要することでもあります。

特定の個人を、イスラム教徒だからという理由だけで、あるいは、キリスト教徒であるという理由だけで、ユダヤ教徒であるという理由だけで、差別することがあってはいけません。しかし、そのことと、宗教を風刺することとは別だと思います。宗教的権威を風刺することをやめると、宗教界が堕落してしまうこともあります。聞きたくないことにも耳を傾けることで、宗教的指導者が高ぶりや過ちを修正する機会が与えられることもあります。

宗教的権威を批判したり、宗教を侮辱することをよくないことだとして規制(自主規制も含みます)してしまうと、中世の抑圧の時代に逆戻りします。それは宗教を信じる人にとってもそうでない人にとってもたいへん不幸なことを招きます。神を冒涜したり、宗教を侮辱することも含めて、人間には自由があります。その自由を規制する社会は、個人が信仰を告白する自由も抑圧してしまう危険性があります。宗教について笑う自由とそれを聞く心のゆとりがある社会は、個人の信仰の自由も保障する社会だと思います。

宗教を信じる者であってもそうでなくても、ときに侮辱的と感じる表現に対して忍耐と寛容さを持たなければならないと思います。それは人間に学ぶ機会を与えます。(もちろん侮辱することだけを目的としたヘイトスピーチのようなものは別ですが。)そして、それは、キリストが十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。」と敵のために祈りをされた、愛と赦しの精神に近づくことであると思います。

シャルリー・エブド紙Tout est pardonné(All is forgiven)に込められた真意」への5件のフィードバック

  1. グリーン

    一言で言って身勝手で傲慢な内容だと思う。
    公共の場で信仰の告白ができないことを人間の自由の危機であるかのように非難するなら
    フランス国が法律まで作って学校などの公共の場でのブルガを強制的に禁止することについて
    是非この人の意見を聞いてみたいものだ。
    赦しても許すつもりはフランス人にはないようだ(笑)
    こういう仏社会の身勝手さを日本人は叩いているのであって、
    けっして「言論の自由は全て許されると思うのは傲慢だ」といって叩いているわけではないよ。
    記事主こそ日本人の批判を表面的にしか捉えていないようだ。

    風刺というならば、そもそもイスラム過激派を風刺すべき対象にすべきであって
    マホメットを侮辱するような対象として描くひつようは毫もなかったはずだ。
    表現の自由は尊いもので何としても守らなければならないものだが、だからこそそれを用いるには
    言葉の暴力にならないよう、無関係な人を傷つけないような配慮が求められる。
    自業自得のような心無い勝手な発言をしておいて、「赦す」? 
    赦すのは自分達がもっとも崇めているものを侮辱されたイスラム教徒の方だろう。

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  2. ピンバック: フランス新聞社へのテロ | ロゴス・ミニストリーのブログ

  3. シャルリー

    こういう記事を日本語で書いてくれる人がいる事に感謝します。

    グリーンさんとやら、仏社会を「叩く」のは結構だけどまず考えてからにしてほしい。
    「マホメットを侮辱」とか「無関係な人」とか「ブルガ(ブルカの事かな^^?)の禁止」とか、色々考えるポイントは多くあるんだけど、知識不足で考えてもしょうがないのかな。苦笑

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  4. MRDien

    CH紙先週号に関しての、一つの解釈として興味深く読みました。
    読後に考えたこと:
    「神を賛美する自由」と対になるのは「神を賛美せぬ自由」であって、「賛美せぬこと」とは別次元の「神を冒涜する自由」あっての、「神を賛美する自由」という図式にはならないのでは。
    また信仰への批判・風刺と、信仰への侮辱・冒涜についても、両者の性格は異なるもので、それらは区別して、その行為の意味を考えるべきでは。両者がしばしば混同されるにせよ。
    信仰、また信条に対する侮辱・冒涜へ、何ら規制のない自由が保証されていたとしても、その自由を行使することの作用、帰結から、人は自由なままではいられない可能性を、改めて想い至った次第。

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  5. ヴィヴィアン

    この絵をどうしてムハンマドだと思うのだろうか? 新聞にそう書いてあるのかな?

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