買収防衛策としての事業信託

敵対的買収に対する対抗措置の一つに「クラウンジュエル」と呼ばれる方法がある。これは、買収対象の会社が営業上の重要な財産や収益上重要な事業部門や子会社を第三者に譲渡して自社を魅力のないものにすることで買収者の買収意欲を削ぐ買収防衛策である。
会社の事業の全部または一部であっても重要な事業の譲渡の場合には、会社法上株主総会の特別決議が必要であるが、重要な財産の処分は取締役会決議で可能である。しかし、買収防衛策としてこのような財産譲渡を行った場合、重要な財産の処分により企業価値が下がると、株主利益を損なうことになるため、取締役としての善管注意義務違反に問われるリスクがある。

その点、改正信託法により可能となった事業信託、特に「自己信託」を敵対的買収の防衛策として活用すれば、善管注意義務違反のリスクを回避しうると思われ、検討に値する。
信託とは、財産を有する者(委託者)が受託者に財産権を移転してその運用管理を任せ、受託者が信託の利益を享受する者(受益者)のために財産を管理・処分する仕組みである。会社の金銭的価値のある財産はすべて信託の対象とすることができ、たとえば、不動産、動産、有価証券、知的財産権などを信託することができる。会社の事業は、積極財産と消極財産(債務)からなるが、改正信託法では債務についても信託の対象とすることができるようになった。ある事業に属する財産とともにその事業に属する債務を合わせて信託することで、実質的には事業全体を信託したのと同じ効果が得られる。

ターゲット会社Tは、買収者Xから見て魅力のある事業AについてY社を受託者として信託譲渡し、ターゲット会社Tは信託譲渡された事業Aの信託受益権を受ける。信託の特徴の一つは、信託された財産は、委託者、受託者の双方から独立した財産となることである。信託財産は、受託者に移転することから、委託者の債権者であっても信託財産について強制執行等をすることはできない。信託譲渡の結果、事業Aはターゲット会社Tの財産から切り離され、独立した信託財産としてY社に帰属することになるから、買収者Xがターゲット会社Tを買収して支配下に置いたとしても、信託財産である事業Aを自由に運営することはできない。

しかし、ターゲット会社Tが事業AについてY社に信託譲渡してしまうと、ターゲット会社は事業Aを継続できなくなるというデメリットがある。そこで改正信託法により可能となった「自己信託」を活用することが考えられる。「自己信託」とは、委託者が自己の財産について信託を設定して、自ら受託者となることである。自己信託では、自分が委託者であるとともに受託者でもあるため、信託契約は存在せず、公正証書その他の書面で信託宣言する方法をとる。

ターゲット会社Tは事業Aについて自らを受託者とする信託宣言をして信託譲渡する。ターゲット会社Tは委託者であると同時に受託者となるが、信託譲渡により、事業Aがターゲット会社Tの財産から切り離されることには変わりはない。ターゲット会社Tはあくまでも受託者として事業Aの運用・管理に当たることになる。その一方で事業Aは信託財産であるから、買収者Xがターゲット会社Tの株式を取得して支配下においたとしても、買収者Xは信託財産である事業Aを自由に運営することはできない。

事業信託を買収防衛策として活用するメリットを「クラウンジュエル」の場合と比較して説明する。

クラウンジュエルの場合、事業を第三者に譲渡するとその事業に関与できなくなり、会社の将来の事業継続に重大な影響を与えかねない。買収者が現れたからといって安易に事業を売却して企業価値を損ねたとなると、取締役は善管注意義務違反を問われるリスクがある。それに対して、事業信託の場合、一旦は受託者に権利が移転するが、信託期間が満了すると委託者に事業が返還されるので、事業の継続性に支障を来すことはない。また、信託期間の間、受託者に権利が移転するが、委託者は信託事業に係る受益権を受けるため、企業価値が必ずしも低下しないことを理由に、善管注意義務違反を逃れうる。

さらに、自己信託による事業信託を活用した場合は、次のメリットがある。通常の事業信託では、工場設備などの有形資産や、知的財産などの無形資産を一旦受託者に移転する必要があり、移転のための契約や移転登録などが必要となり、手続きが非常に煩雑である。また従業員も委託者から受託者に転籍させたり、出向させる必要がある。それに対して自己信託では、自らが受託者となる信託宣言をするだけでよく、資産の移転や授業員の転籍等などの手続きが一切不要である。また、信託された事業を継続することができるため、企業価値は低下せず、善管注意義務違反を問われるおそれがない。

次に、買収防衛策として事業信託、特に自己信託による事業信託を活用する際の注意点を述べる。新たに支配株主となった買収者がターゲット会社の設定した信託契約を自由に解約できると、事業信託は買収防衛策として機能しなくなる。信託契約を解約すると、信託譲渡された事業が委託者に返還され、買収者が自由に運営することができるようになるからである。信託契約は委託者と受託者間の合意にもとづいて締結されたものであるため、信託契約の解消には一般的には受託者側の同意が必要であるが、信託契約の解約条件として、委託者が一方的に解約できる旨の条項があると、買収者がターゲット会社の買収後に信託契約を解約することができる。買収防衛策として事業信託をする場合は、委託者が一方的に解約できる旨の条項を入れないように十分に注意しなければならない。自己信託による事業信託の場合は、自己を受託者とする公正証書で信託宣言をするだけで信託契約は存在しないので、買収者がターゲット会社の買収後に信託宣言を解消することを防げない懸念がある。まだ自己信託が制度として新しいため、この問題を回避する有効な手段があるか、実務上まだ明らかではないようであるが、信託宣言の中で、信託宣言を解消することのできる事由を限定しておくなどの手だてがあるのではないかと思われる。

コメントを残す